歌舞伎座八月納涼歌舞伎〔第一、二部〕 ― 2005年08月16日 20時01分56秒
納涼歌舞伎第三部の翌日、第一部と第二部を観劇。それぞれ福助の『金閣寺』、三津五郎の『伊勢音頭』が眼目である。
まず『金閣寺』。桜が満開の金閣寺で、吹雪のように舞い散る花びらの下、絶世の美女が縛られている。このとんでもない光景を見せるためだけにあるような作品。 私の好きな芝居のひとつなのだが、肝心の雪姫=福助が生彩を欠き不満。6月の『桜姫』といい肝心の役どころで不発続きとは残念。 三津五郎の松永大膳、亀蔵の鬼藤太、橋之助の十河軍平実は佐藤清正、染五郎の此下東吉実は筑前守久吉。いずれも初役揃いながら、それぞれ描線が明瞭で○。 染五郎は颯爽とした二枚目ぶりで合格点だと思うのだが、セリフの中で自分のことを「小男」と言っていることがひっかかった。考えてみればこの役は猿面冠者・秀吉である。見映えよりももっと機知を感じさせる造形でもいいのではなかろうか。例えば今回狩野之介を演じた勘三郎と代わっていたらどうだったろう?
『伊勢音頭』。巧者・三津五郎が初役の福岡貢に挑み、勘三郎が万野でつきあうということで、こちらも期待したのだが、思いのほか面白くなかった。 三津五郎の演技は悪くなかったと思う。過不足なく的確に演じられて、ドラマは明瞭に提示されていた。にも関わらず、いやだからこそ面白くなかったように感じる。 仲居・万野に濡れ衣をきせられたうえ、なじみの遊女・お紺に愛想尽かしをされる貢。女たちに囲まれ、追い詰められていく主人公の姿は、リアルに描写されればされるほど、理不尽さばかりが際立って嫌な気分になってしまうのだ。 一方、後半の殺し場では、その様式美を味わうよりも、貢の殺人の必然性の乏しさに気を取られてしまい、酔えない。 廓情緒を見せる夏芝居だけに、三津五郎のような論理的に構築された演技よりは、役者の華でみせる方が合っている作品なのだろう(何でもかんでも勘三郎というつもりはないのだが、ここでも勘三郎の貢に三津五郎の万野、という配役の方が良かったかもしれないと思った)。
上記2作品とは逆に、期待以上だったのが勘太郎の舞踊『雨乞狐』(第一部)。 勘九郎初演の変化舞踊なのだが実に見応えがある。勘太郎の舞踊の才能は定評があるところだが、身体のキレが一段と冴え惚れ惚れするほどだ。舞踊家というより優れたアスリートを見ているような気分ではあるが、ある種の感動を生む水準という意味ではそれも瑕疵ではあるまい。 野狐→雨乞巫女→座頭→小野道風→狐の嫁、と五変化を演じ分ける。小野道風に憂いと艶が出るようになったら、これは勘太郎の代表作になるだろう。 中村屋の部屋子になった鶴松が「踊る提灯」役でソロパートをもらう。
第一部はこの他に七之助の牛若丸、獅童の弁慶による『橋弁慶』。 第二部の染五郎・孝太郎の『蝶の道行』、橋之助・扇雀の『京人形』は、時間の関係でパスとした。
所見日:8月14日