歌舞伎座八月納涼歌舞伎〔第三部〕『法界坊』 ― 2005年08月16日 19時55分57秒
16年目の納涼歌舞伎は、今年から座頭に「中村勘三郎」を頂いての興行となる。新時代の到来である。 第三部では、5月野田秀樹・7月蜷川幸雄に続いて、串田和美が演出。すでにコクーンや平成中村座で、十分な実績を挙げてきた串田の歌舞伎座初登場の演目は、平成中村座柿葺落で上演した『法界坊』である。
平成12年、浅草に建てられた平成中村座での初演は、あまりいいとは思わなかった。 仮設劇場での歌舞伎という新たな試みに期待する高揚感こそあったものの、勘九郎(当時)のサービス過剰な部分、場当たりに走りすぎるところが目立ち、興をそがれた記憶がある。しかし“串田戯場(くしだワールド)”と銘打たれた今回の舞台は、中村座初演時の浮ついた印象は払拭されている。
第一幕、勘太郎・亀蔵の奮闘が舞台に活気をもたらす。平成中村座初演時には片岡十蔵(当時/現・市蔵)が、大阪再演時(平成14年)には笹野高史が演じた山崎屋勘十郎を、若い勘太郎が新しいキャラクターとして造形していることに感心した。番頭正八の亀蔵は、かなり破格の演技なのに、なぜか歌舞伎としての違和感を感じさせないのが不思議だ。 座頭・勘三郎が大車輪で演じなくとも、周りの役者たちが当然の如く「新しい歌舞伎」に果敢に挑んでいる。歌舞伎は常に変わり続けるものであり、それは誰かが変えてくれるのではなく、自分たちが変えていくのだという意識が多くの役者たちに浸透してきているのだろう。
第二幕、三囲土手。殺し場である。 串田が“今回は法界坊の悪意や毒気も感じさせたい”旨の発言をしていた(8月10日朝日新聞夕刊)のでこの場に大いに期待していたのだが、舞台成果としては十分なものではなかったように思う。 勘三郎の愛嬌が勝ちすぎ、どうしても毒気が薄まってしまうのだ。これは勘三郎の弱点と言っていいだろう(『一条大蔵譚』『髪結新三』にも同じことが言える)。しかしそこを克服してもらわねば面白くないし、勘三郎ならそれができるはずだ。この部分に関しては次の上演に期待しよう(ところで、誰か長塚圭史演出・古田新太主演で『法界坊』をやってくれないか。このコンビなら串田が狙った線をすぐにも具現化できると思うのだが)。
宙乗りで客席をわかせた後、大詰は「双面」。 この場の迫力は平成中村座初演時とは比較にならない。法界坊と野分姫が合体した怨霊という異形の極みを演じる勘三郎の技芸、「押戻し」の橋之助の力感。ここには伝統に裏付けられたカタルシスがある。 初演から5年の間の役者の成長に加え、歌舞伎座という空間の力が、今回の『法界坊』のクライマックスを支えているようにも思えた。
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革新者・勘九郎が襲名したのが、江戸三座の座元「中村勘三郎」の名であったことは象徴的である。この襲名を契機に、歌舞伎は「変わり続ける」ことに対するためらいから解き放たれ、本来の自由を取り戻そうとしているのではないか。 歌舞伎座の客席に身を沈めながら、歌舞伎をかたち作るすべての細胞がターンオーバーを始めているように感じられたのだ。
所見日:8月13日
歌舞伎座八月納涼歌舞伎〔第一、二部〕 ― 2005年08月16日 20時01分56秒
納涼歌舞伎第三部の翌日、第一部と第二部を観劇。それぞれ福助の『金閣寺』、三津五郎の『伊勢音頭』が眼目である。
まず『金閣寺』。桜が満開の金閣寺で、吹雪のように舞い散る花びらの下、絶世の美女が縛られている。このとんでもない光景を見せるためだけにあるような作品。 私の好きな芝居のひとつなのだが、肝心の雪姫=福助が生彩を欠き不満。6月の『桜姫』といい肝心の役どころで不発続きとは残念。 三津五郎の松永大膳、亀蔵の鬼藤太、橋之助の十河軍平実は佐藤清正、染五郎の此下東吉実は筑前守久吉。いずれも初役揃いながら、それぞれ描線が明瞭で○。 染五郎は颯爽とした二枚目ぶりで合格点だと思うのだが、セリフの中で自分のことを「小男」と言っていることがひっかかった。考えてみればこの役は猿面冠者・秀吉である。見映えよりももっと機知を感じさせる造形でもいいのではなかろうか。例えば今回狩野之介を演じた勘三郎と代わっていたらどうだったろう?
『伊勢音頭』。巧者・三津五郎が初役の福岡貢に挑み、勘三郎が万野でつきあうということで、こちらも期待したのだが、思いのほか面白くなかった。 三津五郎の演技は悪くなかったと思う。過不足なく的確に演じられて、ドラマは明瞭に提示されていた。にも関わらず、いやだからこそ面白くなかったように感じる。 仲居・万野に濡れ衣をきせられたうえ、なじみの遊女・お紺に愛想尽かしをされる貢。女たちに囲まれ、追い詰められていく主人公の姿は、リアルに描写されればされるほど、理不尽さばかりが際立って嫌な気分になってしまうのだ。 一方、後半の殺し場では、その様式美を味わうよりも、貢の殺人の必然性の乏しさに気を取られてしまい、酔えない。 廓情緒を見せる夏芝居だけに、三津五郎のような論理的に構築された演技よりは、役者の華でみせる方が合っている作品なのだろう(何でもかんでも勘三郎というつもりはないのだが、ここでも勘三郎の貢に三津五郎の万野、という配役の方が良かったかもしれないと思った)。
上記2作品とは逆に、期待以上だったのが勘太郎の舞踊『雨乞狐』(第一部)。 勘九郎初演の変化舞踊なのだが実に見応えがある。勘太郎の舞踊の才能は定評があるところだが、身体のキレが一段と冴え惚れ惚れするほどだ。舞踊家というより優れたアスリートを見ているような気分ではあるが、ある種の感動を生む水準という意味ではそれも瑕疵ではあるまい。 野狐→雨乞巫女→座頭→小野道風→狐の嫁、と五変化を演じ分ける。小野道風に憂いと艶が出るようになったら、これは勘太郎の代表作になるだろう。 中村屋の部屋子になった鶴松が「踊る提灯」役でソロパートをもらう。
第一部はこの他に七之助の牛若丸、獅童の弁慶による『橋弁慶』。 第二部の染五郎・孝太郎の『蝶の道行』、橋之助・扇雀の『京人形』は、時間の関係でパスとした。
所見日:8月14日
村上龍著『半島を出よ』 ― 2005年08月21日 23時00分36秒
最近は小説の単行本を買うことはめったになくなったのだが、村上龍は新作を読み続けている数少ない作家のひとり。上下2巻の長編なので手をつけるのこそ遅くなったが、詳細な取材に基づいた前半の構築力、一気に読ませる後半の展開と、期待どおりの面白さに満足。
章ごとに、描写の中心になる人物が代わってゆくスタイルがひとつの特徴。この物語には複眼的な視点が必要と判断したのだろう。そのため登場人物が非常に多くなっているのだが、個々の人物造形に厚みがあるために興がそがれることはない。ことに中年以上の人物や、けしてヒロイックではない人物の描写に、以前にはなかった魅力が出るようになった。これが本作の成功のひとつの要因だろう。村上龍独特のエネルギーとある種の稚気は保持されたまま、成熟も感じさせる作品になっている。
8月18日読了
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全然関係ないけど、最近読んだ小説でもうひとつ面白かったのは町田康『告白』。主人公(河内音頭で有名な“河内十人斬り”の城戸熊太郎)の心理に徹底的に密着し、これを独特の文体で、詳細かつミもフタもなく描いて圧巻である。
山下敦弘監督作品『リンダ リンダ リンダ』 ― 2005年08月21日 23時02分42秒
高校の文化祭という、いわば“ありきたりの非日常”を巧く切り取った作品。
「主人公の4人に自分の目線は入っていない」と監督が語るとおり、対象から適度な距離を置いているせいだろう、クールというほど冷たくはなくドライというほど乾いてもいないが、過剰な熱や湿度を排したタッチに好感が持てる(監督の視線に近いとされる軽音楽部顧問役の甲本雅裕がブルーハーツ・甲本ヒロトの実弟というのには吃驚)。
ハズミで急造女子高生バンドのヴォーカルをやることになった韓国人留学生にペ・ドゥナを起用して成功。前田亜季も何気なく演じているように見えるが、巧い。
8月21日@名古屋シネマテーク